昔あった球団「南海ホークス」

 現在、ホークスと名乗る球団の親会社はソフトバンクですがその以前はダイエーが親会社でしたが設立当初は南海電鉄が親会社の球団「ホークス」ですが、設立当初の名前は「近畿グレートリング」という球団名でした。

 1938年に設立された南海軍が始まりで、関西の私鉄球団は阪神電気鉄道阪神急行(阪急)に続く3番目のプロ野球球団となりました。最初の本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場でした。

 同年の3月29日に日本職業野球連盟に承認されたが、当時の連盟理事長である鈴木竜二氏が「古い話で誰が言ったか定かではない」と述べているが、他の球団監督から、反対意見が出ていたと言います。

 その理由は全体で9チームになる為1チーム試合が組めないというものでした。しかもチーム全体でメンバーが14名と人為的に少ないものでした。

 しかし、連盟は条件付きでの参入を決め、南海軍は秋季リーグからリーグ戦に参加することになります。「春季リーグは準加盟という扱い」「選手を補強し、その実力を考慮したうえで秋季リーグの参加を認める」と言うものでした。

 1938年7月22日に南海軍としての初めての公式戦は「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦が後楽園球場で開催され、結果は5対8で敗退となり、これが南海軍最初の公式戦初試合でした。

 結成記念試合は堺大浜球場で阪急軍を迎え、結果は3回に2点を先制したものの直後に雨天中止となってします。

 8月27日に秋季リーグが開幕し、南海軍は初の公式戦を迎え、後楽園球場での読売巨人軍戦を迎えます。最初に巨人が3点を先制し、その後は南海軍が同点に追いつくも、リリーフで登板したヴィクトル・スタルヒン投手に抑えられ、更には決勝タイムリーヒットを打たれてしまい3対4で敗戦となりました。

 2試合目の名古屋金鯱軍戦で球団の公式戦初勝利となりました。結果は3対2で勝利となりますが、初参加のリーグ戦は11勝26敗3分けとなり、首位から18ゲーム差の8位となりました。

 その後は1939年に本拠地として中百舌鳥球場が完成しますが、主に阪急西宮球場阪神甲子園球場で行われていました。この年はのちに監督として最多勝利を記録する鶴岡一人選手が入団しました。鶴岡選手は初年度に10本塁打をあげ本塁打王に輝くなど活躍しましたが、戦地に召集され、終戦までリーグ戦に参加できませんでした。

 チーム成績は1939年が5位、1940年が8位、1941年が43勝41敗で4位、1942年は6位、1943年は最下位でした。1944年は戦況の悪化に伴い、リーグ戦は春季および夏季だけとなり、更には南海電鉄と関西急行電鉄(近畿日本鉄道の前身)と合併することになり、近畿日本鉄道となりました。その為球団名も近畿日本軍となりました。しかし相次ぐ選手の招集により1943年には20人、1944年には14人とチームメンバーが少ない状態となっていました。

 1944年のチーム成績は最下位となりますが、岡村俊昭選手が首位打者に輝くなどチームに明るい材料が見えてました。

 1946年にプロ野球が再開され、リーグに復帰し球団名をグレートリングに改名しました。この年は最終戦まで優勝争いをしており、11月5日に巨人がセネターズに敗れたため球団としての初優勝となりました。

 翌年には親会社が近畿日本鉄道の事業一切が南海電気鉄道に戻り、それに合わせ球団名を南海ホークスに改称しました。

 1948年は南海ホークスとしてのリーグ初優勝となり、翌年は8球団中4位に終わりました。その後、エースである別所選手が巨人に引き抜きされるという事が起こりました。いわゆる「別所引き抜き事件」というものでした。

 1950年からは2リーグ制となり、南海ホークスパシフィック・リーグに参加することになります。最初の年は優勝した毎日オリオンズに15ゲームの差を着けられての2位となりました。

 翌年からはパ・リーグ加盟後の初優勝を果たし、その後は3年連続でリーグ優勝を果たすなどパ・リーグの強豪チームとして名をはせました。

 しかし日本シリーズでは巨人に3年連続で挑むも厚い壁に阻まれました。ファンは「ナンカイやっても勝てない南海」と揶揄されることとなってしまいました。

 1955年にもリーグ優勝しましたが、またしても巨人に敗れる事となってしまいました。

 1956年から58年かけては西鉄ライオンズにリーグ優勝を持っていかれるなど不遇の3年間となりましたが、57年には立教大学のエースとして活躍した杉浦忠投手が入団しました。

 1959年にもリーグ優勝を果たし、5度目となる巨人との日本シリーズに挑みます。伝説ともいえる杉浦投手の4連騰4連勝という快挙で南海ホークスは5回目の挑戦でついに巨人を倒し2リーグ制で初となる日本一となりました。

 念願の巨人打倒を果たした南海ホークスは大阪に帰り、大阪球場から大阪市のメインストリートである御堂筋を12台のオープンカーでパレードしました。警察調べで沿道には20万人が詰めかけました。

 その後は1961年、1964年から66年にかけての3連覇と実に4度のリーグ制覇となりました。2度目の日本一は1964年に阪神タイガースを迎えての大阪シリーズと呼ばれる日本シリーズでした。

 南海が生んだ名選手と言えば野村克也捕手でしょう。テスト生で入団し、8年連続本塁打王に輝くなど南海の黄金時代を象徴する選手でした。1965年には戦後初及び2リーグ制では初となる三冠王に輝いています。

 その後は悲運の名将と言われた西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスに3年連続で優勝されるなど、66年以降はリーグ優勝から遠ざかっていました。

 その為、1968年からは鶴岡一人監督から飯田徳治監督になりました。

 1969年にはパ・リーグで球団初となる最下位になってしまい飯田監督は1年で辞任。変わって野村捕手が選手兼任監督として指揮を執る形となりました。ちなみにへっとコーチはドン・ブレイザー氏を就任させました。いわゆるID野球の原点と言えるでしょう。

 1970年から指揮を執った野村兼任監督ですが、3年目である193年にはプレーオフで阪急ブレーブスを破り1966年以来のリーグ優勝と成りましたがこれが南海にとっての最後のリーグ優勝でした。

 1977年に2位となりますが、オフに野村兼任監督が女性問題で解任されるという事態になりました。その後はBクラスが定位置となってしまい、以後チームは低迷することとなります。

 1988年にチームに情熱を持っていた川勝オーナーが死去。その後は大手スーパーのダイエーに買収され南海ホークスは50年の歴史に幕を下ろします。

 現在はダイエーを得て、ソフトバンクになったホークス。福岡を本拠地にして再び強豪チームとして第2の強いホークスの時代になっています。

 今では九州の人たちに愛される球団となったホークス。これからもファンに愛されることでしょう。