五冠馬・シンザン号

 昭和39年・東京オリンピックが開催された年に戦後初となる三冠馬が誕生しました。その馬の名前は「シンザン」という馬で昭和36年に北海道・松橋牧場で生まれた鹿毛の牡馬です。

 シンザン号は現在表記で2歳の時に京都・武田文吾厩舎から競走馬デビューし、初戦は見事に1着となりました。3歳の春には初めての関東遠征となった皐月賞トライアル・スプリングステークスでは6番人気(この時デビュー4連勝中だっだが評価は低かった)にも拘らず勝利し、デビュー5連勝となりました。この時武田文吾調教師は馬房にいるシンザンに対し「俺は前が見えなかった。お前がこれほどの馬とは思わなかった。」とシンザンに誤ったというエピソードがあります。

 迎えた3冠の第1関門・皐月賞(この時は東京オリンピックに合わせ・東京競馬場で開催)は出走馬は24頭(サッポロホマレ号は競争除外)で、シンザンはデビュー5連勝を替われ単勝1番人気となります。

 レースは最後の直線でアスカ、ウメノチカラと競り合う形になりましたが最終的にはアスカの猛追を退け、デビューから6連勝で第24代目の皐月賞馬に輝きました。

 その後はオープン競争で初黒星となりますが、迎えた第31回日本ダービーは27頭立てで行われ、シンザンは4枠10番に入り単勝1番人気となりました。レースは残り200メートルでウメノチカラとの一騎打ちとなりますが、シンザンは力強く抜け出しウメノチカラに1馬身3/4の差を着けて勝利し皐月賞に続く2冠を達成しました。

 2冠達成は前年のメイズイに続く快挙でした。

 シンザンは夏を京都の自厩舎で過ごしましたが、この年は関西地方は猛暑でした。その為シンザンは重度の夏負けとなり、三冠が危うい所となっていました。秋初戦のオープン競争では2着となり、続く菊花賞トライアル(当時)の京都盃ではバリモスニセイに敗れるなど夏負けが尾を引いていました。

 一方でウメノチカラは重賞を連勝するなどの好調さを見せ、満を持しての西下となりました。このため、シンザンの三冠達成に黄信号がともったと言われています。

 迎えた三冠最終戦の第25回菊花賞は12頭立てとなり、1番人気はウメノチカラシンザンはそれに続く2番人気でした。

 レースは途中からこの年の2冠牝馬であるカネケヤキが1周目のゴール版を通過した所から先頭に立つ展開となり、2周目の3コーナーの坂時点ではかなりの差が開かれていました。しかし4コーナーからシンザンはここぞという所で一気に仕掛けます。直線ではウメノチカラが抜け出すもここぞと言う時にシンザンは一気にウメノチカラをかわし、3馬身半の差を着けてゴールし、昭和16年のセントライト以来23年ぶりとなる三冠馬の栄誉に輝きました。

 しかし、夏負けのダメージは大きくシンザンは翌日過労で倒れるという事態になりました。その為、12月の有馬記念は回避となります。

 復帰後のシンザンは1戦した後宝塚記念に出走しファン投票1位で見事に勝利し、健在ぶりをアピールしました。

 その後は古馬最高の栄誉である天皇賞・秋に出走しハクズイコウミハルカスを相手に力強い内容で勝利し、4冠目を獲得しました。

 有馬記念の前走は2着でしたが、この時主戦の栗田勝騎手が失踪騒ぎを起こし騎乗停止となる事態になりました。この為有馬記念は松本善登騎手が代役として騎乗することとなりました。

 当時は中山競馬場の芝2600メートルで行われた有馬記念(翌年から芝2500メートル)は8頭立てでシンザンは4枠4番となりました。レースは加賀武美騎手騎乗のミハルカスが大逃げをするという展開となりますが更に馬場の内側ではなく外側を回されていた(この時馬場の内側は非常に荒れていた)。ミハルカスに騎乗した加賀武美騎手の作戦だと言われている。

 しかしシンザンはそれを知っていたかのように敢て大外を回るという作戦に出て、(シンザンが消えた!)という実況があったほど、大外を回ったのである。シンザンは直線に入り大外を回りながらもミハルカスを躱して見事に勝利を収めた。

 この勝利で通算成績を19戦15勝とし、連対率は100パーセントと正にパーフェクトの成績を収め、狙った大レースは必ず勝利した。

 シンザンは翌年に種牡馬生活をはじめ、産駒からは当時の1800メートルのレコードホルダーであるスガノホマレやオリンピック用の乗馬にもなったキャプテンナムラや1981年の菊花賞を勝利したミナガワマンナ、1985年の皐月賞菊花賞、1987年の春の天皇賞を勝ったミホシンザンなどの産駒を輩出。1987年には受精能力低下に伴い種牡馬生活を引退。その後は谷川牧場で余生を過ごしました。

 1996年7月13日にシンザンは35年と102日の馬生に幕を下ろしました。死因は老衰でした。

 シンザンは調教で蹄と蹄がぶつかる癖があり、その癖を矯正する為に特殊な蹄鉄「シンザン鉄」というのが作られたと言われています。

 シンザンの名前の由来は武田調教師の初孫である栗田騎手の長男である伸一(のちに騎手・調教助手)が由来とされています。

 死後26年がたち未だに「シンザンを超えろ」という言葉が日本競馬の目標だった五冠馬・シンザン。未だにシンザンの偉大さはどの馬にも超えられません。