ハイセイコーという名馬について

 1972年に地方・大井競馬場でデビューしたハイセイコーは6連勝で当時の重賞である青雲賞(2001年にハイセイコー記念に改称)を制し、満を持して中央競馬入りしました。

 中央の初戦は弥生賞(現在は2005年に無敗で三冠馬になったディープインパクト号を記念して、報知杯弥生賞ディープインパクト記念になっています)を快勝し、その後のスプリングステークスも勝ち、クラシック第1冠目の皐月賞に進みます。ここでも危なげなく勝利し、地方時代から無敗の9連勝で皐月賞を制覇しました。(地方出身馬が皐月賞を勝ったのは史上初であり、2頭目は1989年のドクタースパート号です)

 続くダービートライアルのNHK杯(現在のNHKマイルカップ)も圧倒的な強さで勝利し、デビューから10連勝となりました。

 迎えた日本ダービーは27頭立てとなり、ハイセイコーは2枠5番に入りました。この時の単勝支持率は66.6%で、ディープインパクトが73.4%の記録を作るまでダービー史上最も支持を集めていた単勝支持率でした。

 しかしハイセイコーは、このダービーで終生のライバルとされるタケホープの3着に敗れ、デビューから初めての敗北となりました。

 この時からハイセイコータケホープとの名勝負が始まります。

 秋の菊花賞では3000メートルという長距離がハイセイコーにとって不利ではないかという声が聞こえていましたが、4コーナーを回ってからはタケホープとの一騎打ちとなりましたが、結果は鼻差の2着になりました。(この時、タケホープに騎乗していたのは武邦彦騎手でした。主戦の嶋田功騎手が落馬負傷で乗れなくなったため)

 年末の有馬記念ではストロングエイトの3着になり、3歳シーズンを終えました。

 4歳になってからのハイセイコーは、74年度初戦のアメリカジョッキークラブカップで初の着外となる9着、中山記念では2着に大差を着けて快勝し、再びタケホープと対戦するために春の天皇賞へ出走しますが、結果は6着でした。(優勝したのはまたしてもタケホープでした)

 その後は京都競馬場開催となった宝塚記念に出走し2着に5馬身の差を着けて2つ目のビックタイトルを獲得しました。

 引退レースの有馬記念ではタケホープに先着しますが、昨年秋の天皇賞馬であるタニノチカラに5馬身の差を着けられ2着となりますが、最後のレースでライバルのタケホープに先着するも有終の美を飾ることはできませんでした。

 その後のハイセイコー種牡馬として、自身が勝つことが出来なかったダービーと春の天皇賞を制したカツラノハイセイコ、89年のエリザベス女王杯単勝43060円という単勝万馬券を出したサンドピアリス、90年に親子2代で皐月賞を制したハクタイセイを輩出しました。(地方競馬では羽田盃東京ダービーを制したキングハイセイコーアウトランセイコーの2頭がいます)

 2000年の5月4日に心臓まひのため30歳でこの世を去りました。

 本日は大井競馬でハイセイコー記念が開催されました。

 ハイセイコーの伝説は永遠に不滅です。