本日はいかりや長介さんの生誕日です

 本日11月1日は、ザ・ドリフターズのリーダーであるいかりや長介さんの生誕日です。今から91年前の今日、1931年(昭和6年)に東京都本所区で生まれました。

 母はいかりやさんが4歳の時に結核で亡くなっており、いかりやさんは祖母に育てられました。(母が亡くなった10年後には弟が死去)小学校は(当時の名は国民学校本所区横川国民学校を卒業しています。(現在の名称は墨田区立横川小学校)国民学校の教師には書道家の井上有一がいます。

 1944年、戦争の激化に伴い、静岡県の原田村(現在の富士市東滝川町)へ疎開し、同地の国民学校の高等科に入学しました。(現・富士市立吉原第三中学校)終戦は現地で迎え、父は86歳で亡くなるまでこの地で過ごしたそうです。

 その後は地元の高校(8年間設置された静岡県立吉原高等学校定時制課吉永分校)に進学。すぐに中退し、静岡の春日製紙に勤務しながら同僚たちとハワイアンバンドを組んでいたそうです。元々はスティール・ギターを担当してましたがのちにベースを担当することになります。

 音楽を始めたきっかけが「女性にモテたいから」だったそうで、父からは「食えないからやめろ」と言われたそうです。

 1959年にミュージシャンを目指して上京し、最初の奥さんと共に新宿二丁目のアパートで暮らしていたそうです。

 ミッキー・カーチスが所属していたロカビリーバンド「クレイジーエスト」に参加後はジミー時田と寺内タケシが在籍していたカントリーウエスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のベーシストとして参加します。

 「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」は主に関東各地の米軍キャンプで演奏を披露していたそうです。

 しかし1961年の大みそかの時に巡業の往路で交通事故を起こしてしまったため、所属事務所と対立してしまい、翌年に「マウンテン・プレイボーイズ」を脱退してしまいます。

 その後は小野ヤスシさんが在籍していた「桜井輝夫ザ・ドリフターズ」に参加することになります。(同時期に加藤茶も加入)

 のちに芸能界を引退した桜井輝夫(プロモーターに転身)からリーダーを受け継ぎ「碇矢長一とザ・ドリフターズ」に改名することになり、いかりやさんがリーダーとして現体制が完成しますが、対立したメンバーの小野ヤスシら4人が脱退したメンバーと共にコミックバンド「ドンキーカルテット」を結成し、残ったメンバーと1964年に加入した荒井注高木ブー、石川サダオらを加えて、残ったメンバーの加藤茶らと共に、新生ドリフターズが7人体制で始動しますが、次々とメンバーが脱退してしまいますが、1965年に仲本工事が加入して現在のドリフターズの形になってきます。

 その後ザ・ドリフターズ渡辺プロダクションに所属することになります。ナベプロには当時とても人気のあった「ハナ肇クレイジーキャッツ」の後輩として大々的に売り出しました。因みに長介という芸名はハナ肇さんが名付け親です。

 1966年にビートルズの日本公演で前説で登場し、「のっぽのサリー」を演奏しました。(ボーカルは仲本工事さん)

 その後はテレビ番組「進め‼ドリフターズ」(TBS系列)「ドリフ大爆笑」(フジテレビ系列)などのヒット番組などで知られますが、1969年にTBSでスタートした大人気番組「8時だよ!全員集合」がお化け番組になり、一気にドリフターズは国民的なグループになります。

 1985年に「全員集合」が終了するとその後は俳優として1987年の大河ドラマ「独眼竜正宗」で鬼庭良直役に抜擢されます。その後も大ヒット作の「踊る大捜査線」や1994年にスタートした火曜サスペンス劇場「取調室」シリーズはライフワーク的な作品でした。

 1998年の日本アカデミー賞では「踊る大捜査線 THE MOVIE]での公演が光り、助演男優賞を受賞しました。

 その後は2003年に原発不明のがんが見つかり闘病生活をしながらも俳優として活動し、2004年の3月20日に72歳でその生涯に幕を下ろしました。

 因みに喜劇俳優大村崑さんも、同じ生年月日です。(ずれ眼鏡やドラマ・とんま天狗などの作品で知られます)

 今頃は天国で「おいっスー!」と語りかけているでしょう。

 いかりや長介さんは永遠に不滅です。