前回では、悲運の名馬と言われた・テンポイント号の誕生から2歳での競走馬デビュー、3歳クラシックレースでの敗戦続き、そして終生のライバルであるトウショウボーイとの激闘などをこのブログに書かせてもらいましたが、今回はテンポイントが4歳から悲劇の死を迎える5歳までをブログに書かせていただきます。
1977年、4歳になったテンポイントは最大の目標を春の天皇賞に定め、京都記念(春)に出走します。(当時は春と秋の2回の開催でした。年1回となったのは、東京競馬場で開催される目黒記念と同じ1984年からです)
レースは59キロの斤量が心配されましたが、着差は首差で勝利となり、続く鳴尾記念は61キロの斤量で出走し、こちらも首差の勝利となります。
そして迎えた春の天皇賞は6枠10番に単枠指定され、圧倒的な1番人気となりました。(単枠指定制度は1974年の皐月賞で圧倒的な人気となったキタノカチドキが最初で、最後の単枠指定馬は1991年のセントライト記念で1番人気になったダービー2着馬で、後に菊花賞を制したレオダーバンです)
レースは序盤は6.7番手で進み、4コーナーから先頭に立つと菊花賞で勝利したグリーングラス、後に秋の天皇賞馬になるホクトボーイ、クラウンピアードの猛追を抑えてゴールし、遂に初のビックタイトルを獲得しました。
そして杉本清アナウンサーはテンポイントが直線先頭に立つと「今日は外の方が怖いぞ、しかしテンポイントこれが夢にまで見た栄光のゴールだ!テンポイント1着!」と実況しました。(杉本清さんはテンポイントのファンなんです)
念願のタイトルを春の天皇賞で獲得したテンポイントは、打倒トウショウボーイを誓い、春の総決算である宝塚記念に出走しましたが、またしてもトウショウボーイの前に屈することになってしまいます。
陣営は「もうトウショウボーイに一生勝てないのではないか」とか、ファンの間では「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」と言う声が上がっていました。
宝塚記念出走後は、アメリカのローレル競馬場で開催されていた「ワシントンD.C.インターナショナル」に招待されたために出走を考えていましたが、陣営はトウショウボーイを倒して日本一の馬にするという決意があり、招待を辞退します。
夏季休養後の京都大賞典では63キロの斤量で出走し、2着に8馬身差の圧勝となります。(春と秋に開催される天皇賞は1980年まで勝ち抜き制で、1回勝利した馬は2度と出走することが出来なかったため。過去の優勝馬が再度出走できるようになったのは1981年からです)
その後は東京競馬場でのオープンレース(当時は平場でもオープン競争が1983年まで1開催1レース組み込まれたいました)でも快勝し、いよいよ大一番である第22回有馬記念に出走します。
このレースの主な出走馬は、宿命のライバルであるトウショウボーイ、3歳時の菊花賞でテンポイントを破ったグリーングラス、1977年の菊花賞をレコードで勝利したプレストウコウと言った実力馬8頭が年末の中山競馬場に集結しました。
レースは正に一騎打ちの様相を見せ、トウショウボーイとテンポイントが競り合う形となり、残り310メートルの直線でもこの2頭の一騎打ちかと言う展開になり、更にはグリーングラスが2頭に迫る勢いを見せるも、最後はテンポイントがトウショウボーイの競り合いを制し、悲願ともいえる「打倒トウショウボーイ」を果たしての有馬記念制覇となりました。
この有馬記念勝利でテンポイントは1977年の年度代表馬に満票で選出されました。(他に満票で選出されたのは1956年のメイヂヒカリ、1985年のシンボリルドルフ、2000年のテイエムオペラオー、2018年のアーモンドアイの5頭です)
名実ともに日本一のサラブレットになったテンポイントですが、翌年に海外遠征を計画していました。
そしてファンに海外へ行く前のテンポイントを見せてやりたいという事となり、1月の日経新春杯に出走します。
斤量は66.5キロを背負う形になりましたが、このレースでテンポイントに思わぬ悲劇が起こります。
4コーナーを回った時に後ろ脚を骨折してしまい競争を中止となってしまいます。
かなりの骨折になってしまいこのままでは安楽死処分も考えていましたが、馬主の高田久成氏は「テンポイントを生かしてやりたい」と言う気持ちと、ファンの「テンポイントを殺さないでください」と言う声に動かされ手術を行う事になりました。
そして手術は成功し、今後は快方に向かって行くだろうと思われましたが、骨折した個所のボルトが曲がっていたことと、更にはギブスが骨折した所がずれていたというのが判明してしまいます。
そして翌月には「蹄葉炎」に罹っていたことが解り、日に日に症状は悪化して行きました。(かなりやせ細っていたそうです)
悪夢の事故から43日後の1978年3月5日、テンポイントはついに力尽きてしまいこの世を去ってしまいました。
享年・牡5歳でした。
テンポイントの死はNHKの昼のニュースでも報道されたり、この日は日曜日であったこともあり関西テレビの競馬中継でも杉本清アナウンサー、詩人で競馬ファンの志摩直人さんがテンポイントの死亡について語るコーナーが設けられていました。
テンポイントの葬儀は3月7日に栗東トレセンで行われ、3月10日には生まれ故郷である北海道・吉田牧場で行われました。
生まれ故郷の吉田牧場での葬儀は母のワカクモと生まれたばかりの全弟であるキングスポイントがテンポイントを見送りました。
このテンポイントの事故を受け、レースでの斤量の上限が60キロ以内になったと言われています。
1990年には競馬の殿堂入りを果たしています。
悲運の名馬であるテンポイントがこの世を去って45年になります。
そして終生のライバルであったトウショウボーイは1992年に蹄葉炎で安楽死処分となっています。(享年・牡19歳)
そして「第3の男」と言われたグリーングラスも2000年に骨折で安楽死処分になっています。(享年・牡27歳)
TTGの3頭は今頃仲良く天国を駆け回っていることでしょう。
今回は悲運の名馬であるテンポイント号の話を2回に分けてブログに書かせていただきました。
長い記事になりますが、最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。